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ピアニスト後藤・イシュトヴァン・宏一「21世紀型ピアノレッスン」

B・バルトーク辞典

B・バルトーク辞典

B・バルトークの生涯

べーラ・バルトークは1881年3月25日、当時ハンガリーの南西にあった町、ナージュセントミクローシュ(現在ではルーマニアの国境内)で生まれた。祖父ヤーノシュ・バルトークは作曲家、父は同名のべーラ・バルトークで21歳で農業学校長になるなど、非凡な才の持ち主であった。彼はピアノ、チェロを弾き、作曲もするなど、音楽に熱中し、学校教師でピアニストのパウラ・ヴォイトと結婚した。ベーラ・バルトーク(以下バルトークとする)は、彼らの最初の子供で幼い頃から音楽の才能を示し、5歳の時、母から系統だったレッスンを受けた。

バルトークが7歳の時、父親が病死し、母パウラは、ピアノ教師に復帰して生計を立てることになった。彼女はハンガリーの北東の町、ナージュセーレーシュ(現在はロシア)で職を得て3年間その地に留まった。その間にバルトークは作曲を始めたが、母パウラは彼に正規の教育を受けさせる為、伯母のもとに彼を送り、彼はナージュヴァーラドのギムナジウムに通い始めた。しかし翌年にはナージュセーレーシュに戻ると、公開演奏会を行っている。バルトーク11歳のことである。(学校では裕福な生徒達を好むえこひいきの犠牲になり、幸福ではなかった)その間1年間の休職の許可を得たパウラは、当時活発な音楽活動が行われていたブラティスラヴァに一家で赴き、そこでバルトークはラースロー・エルケル(ハンガリーオペラの先駆者、フェレンツ・エルケルの息子)のもとで勉強する機会を得た。母の仕事の関係で、数ヶ月他の地に移ることを余儀なくされたが、1894年、パウラがブラティスラヴァに職を得ることが出来、バルトークはラースロー・エルケルのもとで勉強を再開し、カトリック・ギムナジウムで再び教育を受けることになった。そしてバルトークは、そのギムナジウムで知り合った先輩のドホナーニを賛美し、ライバル視することになるのである。

1897~98年の間にバルトークはブラームスに傾倒し、大きな影響を受けて作品を書いていた。また、 彼はピアニスト、時にはオルガニストとして活躍し、学校の行事などでしばしば公開演奏を行った。

1898年12月、バルトークは母とともにウィ-ン音楽院を訪れ、入学の許可を得るが、クリスマス休暇中、バルトークは考えを変えてしまう。彼は、彼が崇拝する先輩ドホナーニのように、ハンガリー国内のブダペスト音楽アカデミーで勉強しようと決心したのであった。翌年、同音楽院の無試験入試の入学許可を得たバルトークの前途は明るいもののように見えた。しかし、翌年、間もなくバルトークは突然肺病に冒され、9月まで練習はおろか、ピアノに触れることさえ出来なくなってしまったのである。そのため9月には、無試験許可を一旦取り消され、試験を受ける事になってしまった。しかし、そこは天才バルトークのことである、まったく準備が出来てないにもかかわらず、彼の演奏は抜きんでてすぐれたものであり、結局彼はブダペストで勉強することが出来るようになった。

ブダペスト音楽アカデミー(現ハンガリー国立リスト音楽院)では、作曲をドイツ人のケスラーに習ったが、彼はバルトークにあまり感銘を受けず、バルトークの作品に熱意を見せなかった。反面、彼にピアノを指導したトーマンは、ピアノ以外でも彼を支援した。彼はバルトークにスコアーを与えたり、コンサートのチケットを確保したり、また、聴いたばかりの曲について論じさせた。しかし、新しい何か求めていたバルトークにとって、トーマンは親切で熱心だったという他には、特に目立った助けはなかった。というのは、やはりドイツ人であったトーマンのレッスン方向は、モーツァルトであり、ベートーヴェンであるなど、主流の作曲家の域を出ることがなかったのである。バルトークにとっての新しい感動は、オペラ劇場で聴いたワグナーで、彼はその感動を母に知らせるほどだったが、それでもこの頃はまだ、バルトークの本当の意味での新しい手法は生まれることはなかった。

病弱だったバルトークは1899年10月、病気が再発し、また1900年には肺炎にかかったこともあり、彼は、一時口うるさいケスラーから逃れ、ゆったりとした時期をチロル地方で過ごした冬もあった。しかし、その後彼は自信が高まり、成功をおさめるにつれ、病気の発作はなくなった。

1901年にはリスト奨学金を受け、アカデミーでの公開演奏会も行った。そして1902年、彼は、彼の長い間眠っていた創作力を目覚めさせた曲に出会うことになる。「まるで雷に打たれたかのように沈滞状態から目覚めたのは[ツァラトゥストラはかく語りき]のブダペストでの初演に接した時だった。・・・・・・私はシュトラウスのスコアーの研究に専念し、再び作曲を始めたのだ。」

そしてまたこの頃、前世紀初頭の数年間にブダペスト在住の多くの人が共に感じてたように、バルトークも自分がハンガリー人であることを強く意識し始めていた。1902年には民族詩を作曲し、それ以降ドイツ語のリートは書かれなかった。アカデミー卒業が近づいてきて、バルトークは「交響曲変ホ長調」を完成し、1903年には、アカデミーのリサイタルに参加した。また、バルトーク自身が、自ら定めた目的を初めて具現化した創造的作品である「コシュート」を完成させた。この曲は、ハンガリー民族主義への彼の献身を確証している。1904年にはブダペストフィルハーモニーによって「コシュート」が演奏され、ハンガリーの聴衆と批評家に対して大成功を収め、バルトークはハンガリー音楽の最も重要な大家たちのひとりとして認められる事になったのである。

1903年9月バルトークは1ヶ月間をドホナーニ夫妻のもとで過ごし、その後ベルリンに赴いた。トーマンはピアニストのレオポルド・ゴドフスキー宛に紹介状を出しており、ゴドフスキーはバルトークの面倒を見て、彼はヴィルティオーゾとしての名声を築き始めた。

「コシュート」がブダペストで初演された夏、1904年7月にはバルトークは田舎のゲメル地方ゲルリツェプスタに引きこもった。その地で出会った詩人のカールーン・ハルシャーニは、バルトークの民族的視点と共通したものを多分に持っていた。バルトークは既に1903年にハルシャーニの詩「夕べ」に作曲していたのである。この年9月、前年に作曲した「4つのピアノ曲」など2曲が印刷され世に出たことは、この頃のバルトークにとって大きな出来事ではあったが、その夏を田舎で過ごした時の最も重要な経験は、彼が民謡を発見したことだった。それまで彼が都会で出会った商品化された音楽ではなく、一人の若い娘が歌う本物の民謡であったのだ。・・・・

バルトークが耳にした民謡は、トランシルバニア出身のハンガリー人であるセーケー人で、18歳のリディ・ドーサという娘の歌う自然な土着の文化の歌だった。農民音楽は、リストが想像していたようにジプシーバンドの華やかな音楽を粗雑に単純化したものではなかったのである。その時のバルトークは、このことが後に彼自身にどのような影響を与えるかということがまだよくわかってはいなかった。2,3年の間、彼は引き続きピアニスト兼作曲家の仕事をし、ますます興味を覚えながらも全くの副業として民謡採取を行っていた。1904年12月26日、彼は妹に宛てて次のような手紙を書いてる。「僕には今新しい計画がある。それがハンガリー民謡の中で最も優れたものをいくつか集め、できるだけふさわしいピアノ伴奏をつけて芸術作品の水準にまで高めることだ。こうして採取した民謡は、国外にハンガリー人の民俗音楽を知らせる目的にかなうことだろう。僕らの国の良きハンガリー人たちは・・・・

例のジプシーの安っぽい感傷にはるかに満足感をおぼえているのだ。」-ーーあきらかに彼は、本当の民族音楽が”都会のハンガリー音楽”よりも価値があるという見解をすでにかためていたのである。

いっぽう、対する彼の情熱を刺激したのはコダーイとの出会いであった。コダーイもまたアカデミーでケスラーの弟子であったが、バルトークがはじめて彼に会ったのは、1905年秋に二人がエマ・グルーバーの家を訪れた時のことだったようである。その頃のコダーイはハンガリー民謡についての論文を書いているところで、円筒式録音機による民謡採集の技術をバルトークに手ほどきした。1906年夏にバルトークとコダーイは、ハンガリーのさまざまな地域にそれぞれ単独で民謡採集旅行に出発し、二人で集めた資料を分け合ってピアノ伴奏付きの20曲からなる薄い民謡集を12月に出版したが、その10曲はバルトークが、後半の10曲はコダーイが編曲したものである。彼らはほとんどみずからの手で採集した歌を選んだようであり、その目的は、「ハンガリーの一般大衆が民謡をよく知ってそれを好きになること」であった。そのため、編曲はできるだけ単純なものとなり、ピアノはほとんどいつも声の旋律線とユニゾンで演奏され、特にバルトークの編曲においては控えめで新鮮な和声だけが付け加えられている。ところが、ハンガリーの一般大衆はこの曲集にあまり興味を示さず、印刷した1500部を売りつくすのに1938年までかかってしまった。そのため、第2集を出版することはできなくなってしまったのだが、彼らは屈することなくさらに研究を進めた。

1907年の夏、バルトークはトランシルバニアのセーケー人が住む土地への旅行に出発し、チーク、ジェルジョー、コロジュの地方を訪れた。そしてそこで5音音階の旋律を発見したのである。バルトークはそれがハンガリー民謡の最古の様式から生まれたものであると確認した。(それはマジャール人がドナウ川沿岸よりも、むしろヴォルガ川沿岸に住んでいた時代にまでさかのぼる。後にソ連の住民が当時歌っていた歌と類似点を発見し、バルトークは大変喜んだ。)

1907年のうちに、バルトークは持ち帰った民謡の3曲をリコーダーとピアノ用に編曲した。(後に「チーク地方の民謡」としてピアノ独奏に改作された。)バルトークは農民の旋律の編曲を「宝石の台作り」だと述べており、これは彼がチーク民謡集を作った時、習得しようしていた技術だった。そして1908年~9年にかけて”単純化”という点で大きな前進をしたと思われるのは、「子供のために」という小曲集を書いたことだった。この曲集で特徴的ななことは、彼はハンガリー以外の音楽、とりわけスロバキア、ルーマニアの音楽文化を取り入れていることである。彼はルーマニア人に「最近、誰も死んでいないので哀歌は歌えない」と言われたことがあったが、そのようなことに深い満足感をおぼえていた。音楽は遠い昔には住民共有の営みであり、生活に密着したものだったはずなのである。彼はトランシルバニアに関する論文を発表し、ルーマニアアカデミーは彼の民謡と共にそれらを出版した。

ところでそれ以前の1907年にバルトークは若干25歳でブダペスト音楽アカデミーのピアノ科教授になっている。彼は彼の賛美者であった、当時15歳のマールタ・ツィーグラーに格別な注意を向け、1909年、ほとんど秘密のうちに彼女と結婚した。翌年には息子ベーラ・バルトークジュニアが生まれる。そして1911年、バルトークは30歳になるが、それまでに彼はさまざまな種類の業績を挙げていた。彼はブダペスト音楽アカデミーの若き教授であり、出版物や弟子も増えていた。コダーイと共同で中央ヨーロッパの民族音楽を採集する仕事を開始し、結婚、子供にも恵まれた。彼は以前に彼が立てた、「ハンガリーとハンガリー国民の幸福」に役立つという理想に適合したスタイルを確立しており、6曲の大きな管弦楽曲のスコア、11曲の弦楽四重奏曲、さまざまな種類の数多くのピアノ曲、という、世に認められた作品全体を回顧することができたのである。さらにそのうちのいくつかはすでに出版もされていて、彼はこの頃、自信をいだいていたのである。

バルトークは30歳を迎えた月に新しい創作計画に着手をしたが、それは彼がそれまでに手がけたどの計画よりも大きいものだった。オペラ「青ひげ公の城」の作曲である。彼はこの作品について「私の最初の声楽作品であると同時に、私の最初の舞台作品」だと述べた。台本作者のベーラ・バラージュは、当時新進ハンガリー詩人の一人で、象徴主義の一般的風潮に影響されてはいたが、同時に友人たちの音楽家が農民のあいだで採集していたバラッドなどからも同じく影響を受けていた。そのため、彼はこの作品の作曲は、バルトークかコダーイに依頼したいと申し出ていたのである。そのような「青ひげ公の城」だったが、コンクールでは入賞できず、初めての上演は1918年、まさに7年後であった。当時、再上演されたのも時折だったが、近年になり1981年のバルトーク生誕百年祭のころにはもっとも多く録音された曲の一つになるのである。

自作のオペラが拒絶されたことに対するバルトークの挫折感の一部は、次の作品の中に入り込んだと思われる。1911年に書かれ、やはり1918年になってやっと出版されたピアノ曲「アレグロ・バルバロ」である。その表題によってバルトークは、彼のことを音楽の野蛮人である、と言ったあるフランス人批評家の非難に報復したのだと言われている。

同じ年、1911年にバルトークはハンガリーの新しい音楽を促進する団体、新ハンガリー音楽協会の設立を援助するが、次の年、国内での公的音楽活動から身を引いてしまう。彼は「1年前に作曲家としての私に対して、死刑の判決が公式にくだされた」と述べ、作曲家のゲーザ・ヴィラモシュに次のような手紙を書いてる。

私はあきらめて書物机だけのために書いている。海外での出演に関する限り、過去8年間の私のあらゆる努力は無駄なものとなった。私はうんざりしてしまい、1年前に強いてそれを求めることもやめてしまった。もしも何かの曲をどこかで演奏したければ、私の出版された作品を取り上げて、私なしでそれを演奏すればよいのだ。もしも明確な意図で自筆譜を求められれば、喜んでそれを提供しよう。しかし私の方から手段を講じることは決してないだろう。この8年間でそうしてたことはもう沢山なのだ。私の公的な出演はただひとつの領域に限られている。民族音楽の研究を促進するためであれば、私はどんなことでもするだろう!

バルトークは音楽アカデミーで教鞭を取り続けてはいるもの、ブダペストの音楽生活に何一つかかわらなかった。1913年には、北アフリカを訪れ、民族音楽の採集をし、ルーマニアでは最初の民族音楽学による民謡集を出版する。しかし、1914年の第一次世界大戦の勃発によりバルトークは孤立し無活動を余儀なくされる。そんな中で創作意欲が再び現れるのはやはりルーマニア関係の編曲であった。それらはすべて1915年と記された「ソナチネ」「ルーマニア民族舞曲」「ルーマニアのクリスマスの歌」である。そして1916年バレエ「かかし王子」を完成させ、1917年の初演で大成功を収めて5年間の”引退”から抜け出ることが出来たのである。1918年、バルトークはウニヴェルザール出版社と契約を結ぶことが出来た。彼はこのことを大変重視していたが、その理由の一つは「他のいかなるハンガリーの音楽家も外国の出版社からこのような機会を与えられたことはなかった」ことと、もう一つは、彼の作品がいまや6年の中断の後に、印刷譜として手に入るようになったからである。

バルトークの作曲家としての名声は徐々に広まり、彼は国際的に演奏旅行を行う演奏家としても活動を開始した。1921年にはハンガリー民謡についての論文を完成し、1922年3月からはロンドン、パリ、などでリサイタルを行って、外国でのピアニストとしての名声も高めていった。一方、財政的には楽になったにもかかわらず、1923年にバルトークはマールタとの結婚生活に終止符を打ち、アカデミーの教え子であるディッタ・パーストリと再婚をする。彼女は、結婚と同時に演奏活動を止めてしまう意向であったが、後にバルトークと共にステージに立つようになる。バルトークは、1924年に彼女との間にも男の子をもうけ、ペーテル・バルトークと名づけた。有名な「ミクロコスモス」というピアノ曲集の最初の2巻はこのペーテルに献呈されている。その年にはチェコスロヴァキア、北イタリア、ルーマニアでの演奏旅行で大成功を収め、国際現代音楽協会のチューリッヒでの音楽祭には審査員として招かれてもいる。1925年から27年にかけてバルトークは、ピアノソナタや協奏曲、弦楽四重奏曲などを次々に完成し、その中の「第3弦楽四重奏曲」をアメリカ最古の音楽団体の一つである、フィラデルフィア音楽基金協会が計画した新しい室内楽のコンクールに提出した。1927年12月から翌年2月まで演奏旅行のためアメリカに滞在した後、バルトークはコンクールでフィラデルフィア賞を獲得したことを知ったのである。

1929年にはソヴィエト連邦で演奏旅行を行い、ハリコフ、オデッサ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、モスクワを訪れた。

1930年から34年の期間は、比較的穏やかに創作活動が行われた時期であった。その間、ヨーロッパ全土で「第2ピアノ協奏曲」を演奏したり、ジュネーヴでの国際連盟の委員会やカイロでの民俗音楽会議に出席したりと、国外では華やかな活躍を見せている。そして、彼の創作力、生産力は彼が新しい、時間のかかる仕事を引き受けた時に再び高まり始めた。というのも、1934年に自ら願い出て、音楽アカデミーの教職から解放され、科学アカデミーでの有給の地位を与えられたからである。この仕事に就いて彼は、コダーイと共に初めて民謡採集旅行に出かけて以来、四半世紀以上にわたって着実に増えていたハンガリー民俗音楽の収集物をやっと分類することになったのである。

1935年には「かかし王子」、36年には「青ひげ公の城」のブダペスト再上演があったが、彼の音楽は、その現代性と国際性のためにハンガリー国内では疑惑の目で見られていたといえる。この頃以降の作品の大半は、外国の後援者から委嘱されたものであった。

1937年夏に、バルトークとコダーイは新聞でナチの同調者から攻撃され、彼の音楽には民族主義が不足している、ということを書かれた。10月に彼は、ハンガリー放送に対して、自分の作品をドイツとイタリアの放送局向けに送る許可を与えないことで、自らの立場を明らかにした。1938年にはオーストリア併合が行われた。バルトークは自分の原稿を安全なところで管理してもらおうと思い、友人に頼んでバーゼル(スイス)、ロンドンに資料を送った。友人への手紙には、ナチに対する心底からの嫌悪と、かくも多くの教育あるハンガリー人がヒトラーの支持者になった悲しみについても書いている。更に実質的なレベルでは、彼のスコアをウニヴェルザール社から出版することはもはや不可能であった。ブージー・アンド・ホークス社はウニヴェルザール社のロンドン代理店だったことから、その後彼の楽譜はその出版社から出されることになった。

1938年9月、バルトークはベニー・グッドマンに委嘱された作品「コントラスト」を完成したが、4ヵ月後(1939年1月)のニューヨークの初演では、両端楽章だけが「二つの舞曲」という副題のついた「ラプソディ」として演奏されたに過ぎなかった。正確な表題が明らかにされたのは、翌年、1940年になってバルトークが渡米した時に、グッドマンとシゲティと共にこの作品を録音した時であった。バルトークはそのアメリカ演奏旅行を終えて帰国した時、再びアメリカに戻る意向を持っていた。10月にバルトーク夫妻はブダペストで告別コンサートを開き、彼はバッハの協奏曲と「ミクロコスモス」の抜粋を、彼女はモーツァルト協奏曲(彼女の最初の独奏による出演)と、彼との共演でモーツァルトの二重協奏曲を演奏した。そして10月、バルトークにとって最後の旅となるアメリカ旅行(亡命)へと出発したのである。

最初、亡命者バルトークにとっては万事がうまくいっていたように思われる。クリスマス前にニューヨークとクリーヴランドでコンサートが開かれ、1941年1月には全国的な演奏旅行が行われた。更に重要な事には仕事に就くことが約束されていたのである。40年11月にバルトークは、コロンビア大学から名誉博士号を授与され、翌年4月には同大学で採集されたユーゴスラヴィアの叙事詩的民謡を研究する仕事に着手した。この仕事は彼に多くの喜びを与え、熱中するあまり、1940年12月に「2台ピアノと打楽器のための協奏曲」を、おそらく自分とエディットが演奏するつもりで作ったのであろうが、なかなかその機会は訪れず、1943年1月にやっとニューヨークで共演が行われた。観衆がピアニストとしてのバルトークを見たのはこれが最後であった。

その年2月に、彼はハーバード大学で6回の講義を行う予定であったが、連続講義の半ばで彼は倒れてしまい、検査の結果、赤血球増加性の診断が下されたのである。その後、ますます悪化していく病気の中で、バルトークは「管弦楽のための協奏曲」、「無伴奏ヴァイオリンソナタ」などを次々と手掛け、さらにコロンビア大学からの委嘱を履行するためにワラキア民謡の歌詞を研究したりもした。

1945年バルトークは「第3ピアノ協奏曲」の作曲に従事したが、9月22日ウエスト・サイド病院に移され、26日、64歳の生涯を終えた。